「冬」のジンクス。 2001年
2月11日(祝)

 ソルトレーク五輪のフリースタイルスキー・モーグル。

 銅メダルを取ったのは里谷多英。
やはり、「本番に強い選手」というものは存在する。
そう確信させる滑りだった。

 しかし、メダルを期待されていたのは上村愛子のほうだった。
彼女は6位。また表彰台に立てないまま、
たった2日間のオリンピックを終えた。

              ☆

 なぜか冬季オリンピックには、
期待された選手が予想外の惨敗を喫し、
伏兵の選手がメダルを獲ってしまう、というジンクスがある。
日本人の精神面の問題だけとは思えない、不思議なジンクス。

 4年前の長野もそうだった。
当時も、メダルの期待がかかっていたのは上村愛子。
しかし、まさかの大技を本番で決めてしまった里谷のほうに、
勝利の女神は微笑んでしまった。

 また、スピードスケート男子500mでも、
2大会連続のメダルがかかっていた堀井学は自滅し、惨敗。
世界最速の栄冠は、清水宏保のほうに輝いた。

              ☆

 もう十数年も前のこと。

 私の受験の日の朝、兄が「はい、お守り。」と一枚の写真をくれた。
新聞から切り抜かれたその写真は、スピードスケートの選手、
北沢欣浩のものだった。

 彼は、サラエボオリンピックの銀メダリスト。

 スピードスケート男子500m決勝。
この大会で、誰もが期待する日本のエースは黒岩彰だった。
テクニックは世界最高と言われ、日本スケート史上初の
メダルへの期待が黒岩にかかっていた。
 しかし黒岩は、そのプレッシャーに押しつぶされるようにして惨敗。
10位に終わることになる。

 日本中がため息に包まれたその直後。
38秒30のタイムを叩き出したのが北沢欣浩だった。
北沢はそれまでまったく無名の大学生。
 最終選考会に3位で滑り込み、やっとつかんだ五輪代表には、
注目する者も、期待する者もほとんどいなかった。

 その彼が、まさに一世一代の滑りでもぎとった銀メダル。
大学卒業後、彼は実業団からの誘いを断り、郷里の北海道に戻った。
未練を残さず、事実上の競技人生を終えた。


 「北沢選手のように、まぐれもあるから。」

 いたずらっぽく笑う兄から渡されたその写真。
報道陣に銀メダルを見せる彼の笑顔を生徒手帳におさめながら、
私は受験会場へと向かった。



覚えてますか?
歴代メダリスト。








当時の経緯を
もっと詳しく




(敬称を略しました)


「常連」とは。 2002年
2月10日(日)

 遠くから訪ねてきた来た友人を、自分の好きな店に連れてって
お気に入りの料理を食べさせたとき。

 「おいしくない。」とはっきり言われたらどうします?

「ごめん、君の口にあわなかったか。
 僕はここがおいしいと思うんだけどね。」

 こう言えたら、あなたは立派な人です。

「あれ?そういえば味が変わってるかな?
 以前はこんな味じゃなかったはずなのに、味が落ちたんだろうね。」

 こう言ってその場を取り繕ってしまったら、やっぱりだめでしょう。

 しかもその店があなたの行きつけで、
店主と話しては味についてあれやこれや助言して、
自分好みの味に変えさせたりしていた場合、
その一言であなたは「最低の人」になってしまいます。

 「常連」には、その店を守る責任と義務がある。
「常連」であることは同時に、その店の人たちの生活を、家族を
背負うことでもあるのです。

 あなたにとってはたかが「趣味」であっても。


スポーツ以外のオリンピック。 2002年
2月9日(土)

 ソルトレークシティオリンピックの開会式は、
なんかアメリカという国家の国威発揚の場に使われてしまいましたね。
テロに遭った自分たちだけが悲劇の主人公であり、
それに打ち勝とうとする姿をヒロイズムで鼓舞するかのような。

…だから自分たちが憎まれる、ってことがわかってない。(^〜^;)ムゥ

 しかしまあ日本は日本で、明日のスポーツ新聞なんかは
日本選手団のユニフォームが地味だとか不評だったとか言って
またまた「ユニクロ」攻撃を始めちゃうんでしょうねぇ。

 まったく、成功者に対する「妬み」だけが原動力、っていう
連中というのも、手に負えないものです。ヽ( ´ー`)ノふっ


ロバート・キャパのように。 2002年
2月5日(火)
 ロバート・キャパ。

 スペイン内戦の悲惨さを世に知らしめ、
ノルマンディー上陸作戦をただひとり記録し、
ベトナムの地雷に散った報道カメラマン。

 彼の人生は、波瀾万丈という言葉でさえも言い尽くせない
冒険と勇気に満ち満ちたもの。
どうせなら、こういう人生を。


「キャパ〜その死〜」

ソルトレークの夢。 2002年
2月1日(金)

 ソルトレークシティオリンピックがやってくる。

 日本選手団218名。
しかし、そのなかで脚光を浴びるのは、ほんの一握り。

 そのほかのほとんどの選手は、
だれにも注目されないまま滑り、飛び、演技して
それぞれのオリンピックを終える。

 自分の胸のなかにだけ、オリンピックの思い出をしまって。

             ☆

 冬季オリンピックの華・フィギュアスケート。
高く力強いジャンプと華麗な演技を競うこの種目で、
類を見ない奇抜な演技で注目される選手がいる。

 竹内洋輔選手、22歳。

 彼の演技の特徴はコミカルさ。
映画「ターザン」のサントラに合わせ、
彼はゴリラをまねし、象を演じ、鳥になりきる。

 去年11月、この演技の初お披露目となった
国際大会・スケートカナダ。
 そのコミカルな一挙手一投足に会場は笑いに包まれた。
演技終了後は大喝采となった。


 彼のこの演技を作ったのは、
ロシア出身のコーチ、タチアナ・タラソワ。
 数えきれないほどのメダリストを育て上げた彼女のもとに
押しかけるようにして、竹内選手は教えを請うた。
そして作り上げられたのがこのコミカルな演技だった。

 彼には、演技中に背中が曲がってしまうという欠点があった。
注意はしていても、演技中に疲れると必ず出てくる致命的な欠点。

 タラソワは言った。

 動物を演じることで、この欠点を表現に変えてしまおう、と。

 それが、選手の個性を伸ばすことで世界のトップを育て上げてきた
タラソワならではの“逆転の発想”だった。

 そして彼は、この演技を手に入れたことで
一躍世界の注目を浴び、日本代表の座を手に入れたのである。

 スケートをはじめて18年目の、悲願達成だった。


 しかし、五輪代表の座をつかみ取った直後、
厳しい現実が、彼の前に立ちはだかった。

 4歳のときからずっと滑り続けてきたスケートリンクが閉鎖され、
彼は練習場所を失ってしまったのである。
 18年間滑り続けた、彼の“庭”。
親会社である大手スーパーの経営危機が原因だった。

 いま、彼は練習場所を求め、さまよっている。
片道1時間半。
満員の電車に揺られてたどり着く場所は、
子どもたちのスケート教室に混じっての間借りのリンク。

 思いのままに滑れない悔しさ。
技のレベルを維持するのが精一杯の状況。

 疲れて電車のなかで眠りこける彼の姿を見て、
誰が五輪代表だと思っただろうか。


 しかし、彼はめげなかった。

 五輪代表をつかんだとき、リンクの仲間が心から祝福してくれた。
いま、その仲間は散り散りになってしまった。
なかには、冷たい風の吹きすさぶ屋外リンクで
練習を強いられている子どももいる。

 それに比べれば、幸せなのだと。
その子たちのためにも、頑張らなければならないのだと。
そう、自分に言い聞かせながら---。


 その彼の、五輪にかける夢。
それは、自分の演技で観客を喜ばせること。

「どこまで行けるかわからない。
 でも、自分の集大成としてすべてを出せれば、それでいい。
 そのうえで、観客が喜んでくれればこんなうれしいことはないです。」


 日本時間、2月15日午前9時45分。
竹内洋輔選手のコミカルな演技が、
オリンピック会場を笑顔で満たすときがやってくる。






















































女々しい、という言葉。 2002年
1月28日(月)

「女々しい」という言葉は、つくづく男のためにあるのだと思う。

 女は、一度「嫌い」だと思ってしまうと、もうだめである。
「一緒の空気さえ吸いたくない。」
その女は言った。

 男は違う。
すぐに後悔し、反省し、よりを戻したいと。
「あのときはどうかしてたんだ。」
言い訳すれば、謝れば、元に戻れるはず。
そう信じてしまう。

 未練たらたらつきまとい、顔を合わせれば謝罪の言葉。
無視すれば腕をつかみ、ハッとその手を離して謝罪の言葉。
最後にはなぜわかってくれないんだ、と怒りの言葉。

 日々、目の前を過ぎていくニュースのなかで、
復縁を迫る男が女のもとに押しかける、
そんな事件をいくつ見てきたことだろう。

 とことん男は「女々しい」ものだと。


「居酒屋」に代わる言葉。 2002年
1月14日(月)

 日本酒や焼酎を飲ませてくれて、
魚などの和食系を主体に、しゃれた食事をさせてくれる店。
この店を、どう呼んだらいいと思います?

 居酒屋?
たしかに昔はこの言葉がしっくりきたのでしょう。
でも、いま、この言葉が指し示すのはチェーン店の安っぽい店に
なってしまいました。

 小料理屋?
なんか和服姿の女将がいないといけない気がしますよね。
店の大きさもカウンターだけのイメージだし。

 割烹?
ちょっと高級で、魚主体の雰囲気。
生け簀でも持ってなきゃいけない感じ。

 いわゆる居酒屋よりも個人経営的で手作りで、
小料理屋ほど色気がなくてもいいから、
割烹ほど魚だらけじゃない店。

 そんなお店を指し示す、新しい言葉が必要な気がしますね。


理想の暮らし。 2002年
1月13日(日)

 以前、私がオーディオマニアだったころ、
好きだった評論家の傳信之(ふう・のぶゆき)さんが書いていた小話。

          ☆

 男性にとって理想の暮らしとは、

「イギリス人の家に住み、中国料理を食べ、
 米国人の収入で、日本人の妻を持つ。」

 これがひとつずれたら悲惨である。

「イギリスの料理を食べ、中国人の収入で、
 米国人の妻を持ち、日本人の家に住む。」 

          ☆

 …おもしろいでしょ。(^◇^;)

 まあ、だいぶ昔に読んだものですので、
今とは事情が異なってきているような気もしますが。

 どこが?それは聞かないで。ヽ( ´ー`)ノふっ


おそるべしレバノンワイン。 2002年
1月12日(土)

 すごいワインに出会ってしまいました。
レバノンの「シャトー・ミュザール Chateau Musar」という名のワイン。

 福岡のワインの店「Cookin'」で勧められるままに飲んだのですが、
いわゆるスパイス系の香りが強く、さらりとした喉ごし。
 しかも、デカンタに入れて空気に触れさせると
信じられないほど劇的に味が変わっていくのです。

 1時間くらい経ったときの香り高い甘さといったら、もう。

 中東のレバノンでワインなんて、と思っていましたが
聖書の舞台がこの地域一帯なんですから、
あって当然、むしろこちらが本家本元なんですよね。
 しかもフランスの植民地支配を受けた歴史もあり、
いいワインを生み出す条件は整っているようです。

 メジャーなワインではないし、なかなか入荷しないらしいので
なかなかお目にかかれないかもしれませんが、
ぜひ、覚えておくといいですよ。


クリックすると拡大します

めざせ「失楽園」。 2002年
1月11日(金)

 「新聞なんて、テレビ欄しか見ない」ってひと、多いですよね。

 ネットの世界にも、
そんなテレビ欄のような存在があるような気がします。
 載っている情報は使い捨て。
その情報以外になにも広がりを持たない。
いくら苦労しても誰にも感謝されない。

 そうかと思えば、新聞の連載小説のように、
読む人の数は少なくても大きな影響力を持ちうるコーナーがあります。
事実、あの「失楽園」は日本経済新聞の小説欄から生まれました。

 できれば、ウチも「失楽園」のようなページでありたいですね。

…「失楽園」のような内容、という意味ではなくて。ヽ( ´ー`)ノふっ


ユニクロとはなにか。 2002年
1月10日(木)

 なぜ「ユニクロ」は支持されたのか。
それは、これまで日本には「普段着」を売る店がなかったから。

 普段着。
安い服を買おうとしたら、我々はこれまでどこに行っていただろう。

 町の「洋品店」はおばさんの雰囲気。
店内を支配する茶色や灰色が、ひどくくすんで見えたのは、
本来の色だったのか、埃のせいだったのか。
 紳士服チェーンはおじさんの匂い。
毎日の背広から脱皮できないような、テカテカした生地のシャツが
風になびいて手招きしてた。

 そして、スーパーの二階は絶望的空間。
センスのかけらもない色使い。
頼んでもないのに付いてくる横縞だのチェックだののデザイン。
そして、似ても似つかぬワニの刺繍やらポロのシルエットやら。

 勘弁してくれ。

 みんな、そう心の中では思っていた。
それが、サイレント・マジョリティ(声なき多数)だった。
そんなに服に興味があるわけではないし、
服なんかにおカネなどかけたくないひとたち。

 「ユニクロ」は、そういう人々の心の隙間にうまく入り込んだ。

 余計なデザインは一切なかった。
変な模様も、いびつな形の刺繍もなかった。
ただ、そこには鮮やかな色があった。

  そう、「ユニクロ」は偉大なノーブランド。
「なにもないこと」が最大の武器だった。
人々は「ユニクロ」にそれ以上のものを求めていなかった。

 しかし「ユニクロ」は勘違いした。
自分がブランドだと。
「ユニクロ」の名前でみんなが買ってくれているのだと。

 それが不幸の始まりだったのかもしれない。


競馬は仕組まれているか。 2001年
12月23日(日)

 よく、競馬は仕組まれている、という連中がいます。

 その連中の説によれば、中央競馬の主催者であるJRAは
レースをする前から何が勝つのかあらかじめ決めていて、
週の初めの広告などに「隠しメッセージ」を入れるのだというもの。
何が勝つのかは、いろんな要素によって決められます。
 それは、だれも予想しないような劇的な勝利の演出であったり、
その直近の世の中の大きな出来事を思い出させるものだったり、
さらには単なる数字のゴロ合わせも。
たとえば、かつて「第110回天皇賞」で1−10が来たとか。

 そして、その隠されたメッセージを読み解くことができれば、
馬券がとれる、つまりカネ儲けができると
マジメに信じている連中がいるんです。

…実にバカバカしい。ヽ( ´ー`)ノふっ

 さて、きょうの大レース・有馬記念。

1着 マンハッタンカフェ
2着 アメリカンボス
3着 トゥザヴィクトリー

 世界経済の拠点「マンハッタン」を狙ったテロに怒った
ブッシュ大統領「アメリカンボス」は
対テロ戦争の勝利に向けて「トゥザヴィクトリー」作戦を開始した…。

…できすぎ。(^〜^;)ムゥ


テレビの中の死。 2001年
12月22日(土)

 史上初めて、大量の「死」が生中継された。

 9月11日の世界貿易センタービル。
飛行機が突っ込む瞬間、ビルが崩れ落ちる瞬間。
テレビ技術の発達が可能にした、リアルタイムの「死」。

 映画・小説ですら考えつかなかったその手法。
その激烈な「死」は、強烈なインパクトを人々に与えた。
泣き叫ぶ市民、行方不明者を探す家族、必死の救助活動の消防士。
 これらの映像にアメリカ世論は一気に沸き立ち、
犯人とされるビンラディン氏に復讐すべく
アフガニスタンという他国を侵略しはじめた。
罪のない国民に爆弾を投下しながら。

 しかしその前に、まず考えなければならないことがあった。

 なぜ、アメリカが攻撃されるのか。
なぜ、ビンラディンはアメリカを憎むのか。

 そしてなぜ、テロの報を聞いたアラブの民が歓声をあげたのか。

 その背景には、報道されないおびただしい数の「死」があった。
1948年、アメリカや英国などの支援によって行われたイスラエル建国。
 突如やってきたユダヤの民に土地を奪われたパレスチナの人々は
以来50年あまり抵抗を続け、イスラエル軍の前に死んでいった。

 人間は、見えないものについては鈍感で、
なかなか思いを馳せることができない。
 パレスチナで死んだ者の数は、
貿易センターでの死者の数をはるかに上回るというのに。

 テレビの中のアメリカ人の死は重くて、
遠い中東の名もなきパレスチナの民の死は、軽いのか。

 それをきちっと認識しなければ、
この戦争はやがて、イスラム教対キリスト教の戦争になる。
そしてそれこそが、ビンラディン氏の仕掛けた罠なのかもしれない。

 願わくば、血塗られたクリスマスにならないことを。


世界は狭い。 2001年
12月12日(水)

 広島の中国料理を考えるとき、
比較対象として頭のなかにずっとあったのが
佐賀のニューオータニにある「大観苑」でした。

 もう10年も前になるんですが、かつて佐賀にいたころ、
仲良くしてもらっていた大学の先生と週に一回はここに通い、
晩御飯をいっしょに食べていました。
前菜から始まって、単品でいくつか。割り勘で4000円前後。
酒は飲みませんでしたから、けっこう食べていました。
ここの中国料理はすごくおいしかったんですよね。

 でも、ニューオータニと言えども佐賀。(^◇^;)
ほんとうにここを標準にしていいものか、迷っていました。

 こないだのことです。
「沙華菜」の主人と話していたら、この店の話になりました。
実は、まったく同じ時期、彼もこの「大観苑」で修行中だったのです。
 当時、あの店にはすごくできる料理人がいて、
まだ駆け出しだった彼はその料理人のもとで
主に前菜を作っていたとのこと。

 あの店のクラゲ、おいしくて好きだったんですけど、
まさか「沙華菜」の主人が作っていたものだったとは…。(^〜^;)ムゥ

 かつてヨーロッパを放浪したとき、
ブレーメン(西ドイツ:当時)で仲良くなったカップルと
ウ゛ェネチア(イタリア)の細い路地でバッタリ再会したときには
なんと世界は狭いことか、と思いましたけど、
今回はそれに匹敵する世界の狭さでしょうか。ヽ( ´ー`)ノふっ


うんざり。 2001年
12月11日(火)

 去年、嫌というほど聞いたセリフが

 『20世紀最後の…』


 今年、死ぬほど聞いたのが

 『21世紀最初の…』

 ここまでくると完全に馬鹿の一つ覚え。
いちいちそんな枕詞をつけて、
いったい何を表現しようというのでしょうか。

 そんな手垢にまみれた陳腐なセリフ、
もはや誰も聞きたくないと思っているのに。


 しかしもうすぐ、必ずこう言う馬鹿が出ます。

 『21世紀最初の大晦日。』

 そんな日になんの意味もない。


特別あつかい。 2001年
12月9日(日)

 「広島とっておき!!」というサイトをやっていて、
どうも勘違いされているような気がするときがあります。

「オフ会なんかやって、『おいしかった』なんて掲示板に書いてるけど、
お店だってどうせインターネットに書かれるのがわかってるから
特別料理を出してるに決まってるじゃん。」って。

 違うんです。

 たしかに、特別扱いをしてもらうことはあります。
でもそれは、このサイトをやっているからではないのです。
それ以前に、私がその店の常連だからなのです。

 私は好きな店には何回でも行きます。
週に一回も二回も。
だっておいしいから。好きだから。

 料理人だって人間ですから、
自分の仕事を気に入ってくれるひとには
少々サービスしたくなっちゃうじゃないですか。

 それが私にはとてもうれしいことなんです。
『常連として』特別に扱ってもらえることが。

 あるとき、
「いつでもどんなときでも同じものを出せるのが立派な料理人だ」と
言ってる人がいましたが、
そんなひとはマクドナルドのハンバーガーでも食べていればいい。

 さあ、あなたも「いいお客さん」になりましょうよ。
べつに、難しいことではないんですから。

 ラーメン屋を何十軒も食べ歩いてるヒマがあったら。


信じられるもの。 2001年
12月8日(土)

かつて日本人は「国」を信じた。

戦後、日本人は「会社」を信じた。

会社のために一所懸命働けば、
会社は必ずそれに応えてくれる。
そう信じていた。

しかしそれは片思いだった。
いくら自分が会社を愛していても、
会社は自分を愛しているわけではなかった。

かつて賢き経営者たちは
自分の命を懸けても社員の雇用を守った。
いま、愚かな時代の経営者たちは
リストラの名のもとにいとも簡単に社員の首を切る。
会社を危機に陥れた責任もとらず、
まるで首切りがかっこいいことでもあるかのように。

日本人は信じるものを失った。

親の現実を目の当たりにした子どもたちは
働くことの意味を理解できなくなった。

会社を信じられなくなったとき、
日本人の不安がはじまった。

日本人は信じるものを失った。

次に信じるものは。


馬と飛行機。 2001年
11月23日(祝)

 馬に乗ったことがありますか。

 鞍に手をかけ、右足を大きくあげ、
よじ登るようにして馬にまたがったとき、
その意外な目線の高さと視界の広がりに
新鮮な感動を覚えるはずです。

 西洋馬術では、人は必ず馬の左から乗ります。*
左足を鐙(あぶみ)にかけ、右足をあげてまたがります。
実はこのスタイル、いろんなものに名残が残っています。

 実際、馬に代わるものとして登場した自転車、オートバイは
まったく同様の乗りかたをします。
 これは全世界共通。
日本は道路が左側通行ですから、道路沿いに止めた場合に
乗りやすいのですが、これが右側通行のアメリカなどでも一緒。
左側から乗る、という馬術の名残はしっかりと残っています。

 そしておそらく飛行機も。

 飛行機に乗るとき、機体のどっち側のドアから乗ります?
右側から乗ったことあるひとって、いないはずです。
そう、旅客機は左側のドアからしか乗り降りしません。

 なぜ航空機は左側から乗るのか-----。
実際、航空会社に尋ねたのですがどこも知りませんでした。

 それは、乗馬の名残なのでしょう。
かつて飛行機がまだまだ小さかったころ、
パイロットは、機体をまたぐようにして操縦席に乗り込んでいました。
そのとき、右側から乗り込んだのは
むしろ自然ななりゆきだったのかもしれません。

 もし、このときの左側から乗った習慣が
ジャンボ機の現代まで続いているのだとしたら---。

 常識って、実はささいなことから始まるのかもしれませんね。


            ☆


 そうそう、エルメスもグッチもダンヒルも、
もとは馬具屋だったんです。

 馬の文化がいかに西洋文明に深く根付いているか、
わかってもらえました?

*これに対し、日本古来の
馬術は右側から乗る









初の大西洋横断飛行を
成し遂げたリンドバーグも
また、愛機の左側で写真に
おさまっている。